昭和42年7月7日 朝の御理解
信心をしてみかげのあるを不思議とはいうまじきものぞ、信心をしてみかげのない時はこれぞ不思議なる事ぞというふうに教えて下さるのでございますから、信心をして当然、当たり前、おかげを受ける、おかげを受けさせてもらわなければなりません。
ところが、ようおかげが頂けない。そこんところに、どうしておかげが受けられるのかという、いうなら、疑問を持つ。これだけ信心をしよるのにどうしておかげを受けられんのかと、ね。
そこで、いよいよ、これはどこにか間違いがあるのだ、まだ一心が足りんのだ、という事になり、いよいよその一心を出して信心をさせてもらう。間違っておるところは正させてもらい、いよいよ、教えを頂いて、教えに忠実にならせて頂くところから、なるほど、おかげを受けられるものだなと言う事が分かって来る。信心しておかげをあるのを不思議というのじゃない、もしないの時ほど不思議に思わにゃいけん。
どう言うわけか、その、おかげのある時には不思議だと不思議だと、みんなおかげを頂くというてから、いうけれども、おかげの受けられない時には、それは一つも不思議とは思わん、不思議とは思わんどころか、もう神様に力がないような思い方をする。おかげが受けられると言う事が嘘のように思う。これではいつまでたってもおかげは受けられません。ね。
不思議なおかげを頂く、じゃない、それは当たり前なおかげ、受けられない時のほうが不思議だ。だから、そこんところを分からせてもろうておかげを受けて頂かなければならん。そして、そのおかげを受けて、それから本当の信心をさせてもらい、いわゆる、真の信心をさせて頂くのである。
それには、どうでもお互いが真の道を踏まなければならん、真の道を踏ませて頂く為に私共がいよいよ真の人間にならせてもらう事を一生懸命努力しなければならん。真の人になる事も努めず、真の道も踏まず、それでは、本当の信心を身に付いていけない。
昨夜、企画の方達の会合が例会がございました。合楽におかげを頂きましてから新しい機構の元にに、新しい組織作りと言う事がいわれ、いろいろ具体的な案が出て、その事が段々成されて行っております。為に、その会の名称というものがどうでも必要になってきた、なかなか良いその名称が浮かばない。信心に一つの信心生活の信条、それを合楽なりの会でございますから、合楽の信心にふさわしい会の名称を欲しいというので秋永委員長がその事のお届けがあった。「総合神習委員会」かなんかというような、いわゆる、神の名前が出来た。
総合神習委員会である、それでいいと私は思った、それでもちょうど御祈念前のことでございますから、またと改めて神様にお願いさせて頂きましたら、もう、それこそ、ぽっこん鮮やかにですね、字を持ってお示しくださったんですけど、それを「真道」と頂いた、真道とは真の道と書いてある。真の道、ね、金光教合楽教会真道委員会、ね、私、あの、共励殿のとばに会の名称が決定した、その名称が書いてございますから、後で御覧なさい。いわゆる、真道と言う事を頂くんです、いわゆる、一つ合楽の信心を頂いておる人達が、いわゆる、本当の事を分からせてもらって、真の道を辿らせてもらうおかげ受けなければならないと、金光様のご信心を頂いとるから皆が真の道を辿っておるとはいえない。ね、いうなら、合楽の信心を頂いておるから皆が真の道を辿っておるともまた言えない。その真の道と言うことについての御理解を昨夜頂いたんです、ね。
簡単にその事を申しますとですね、真の道というのは、いわば、これは人間がです、誰しもが真の道を、生き方と言うことにならなければいけない。様々な生き方がある。ね、もうとにかくこの世は金さえ貯めとけばよかというような生き方もある。ね、家庭円満でさえあればいいという生き方もある。それこそ、この世を太く短く生きるといったような生き方もある、様々ないわゆる、生き方というのがあるのです、ね。
そんなら金光様のご信心ぶりによっての生き方もある、天理教の生き方もある、仏教的生きる生き方もある、ね、だから、そういう生き方があるんだけれどもですね、これは、どうでも人間が全部こういう様々な生き方がある、私の生き方、例えて、まあ、分かりやすくいうならばです、合楽の大坪総一郎が生きておる生き方というのは、こういう生き方もあるというものではなくて、私の生き方こそ、これは人間すべての者がこう言う生き方をしなければならない、こう言う生き方をすれば人間の幸せが約束されるという生き方。
様々な生き方がある、その生き方で良いというのではなくて、こう言う生き方、この生き方こそ、この生き方こそ本当の生き方だと、いわゆる、真の生き方だと言う事を昨夜頂いたんです。なるほど、金光教の信心でも、甘木の安武先生のなんかの生き方は、金光様のご信心を頂かれてどういう生き方をなさったかというと、もう徹頭徹尾天地のご恩徳と言うことであるですね、天地のご恩徳を説かれた。だから、天地に対するところの神恩報謝の生活をしていかなければならないと言うことを教えられた。
そういう金光教の中にそういう生き方の人がある。いわゆる、ところがこう言われて私は思う事はですね、神恩報謝の生き方というのはです、まあ、仏教的でいうなら仏門報謝の生き方にあると言うふうになる。ね、この世の一切の物に、いわゆる、天地の恵みに対して感謝の生活をさせて頂くと言う事が、真の生き方、いうふうに思い込んでみること。
玉水の湯川先生なんかの生き方は、ね、とにかく神様が御主人で、主人、そこの主人はその番頭さん、家内は女中さんだという生き方、素晴らしい生き方なんです。そういう生き方がある。そんなら、合楽的生き方、私の生き方というのはどういう生き方かと、その事をいろいろに私は聞いてもらって、これはお道の信心をさせて頂く者だけではなくて、人間この世に生を受けておるその人民の者がです、こう言う生き方さえしていけば世界は丸う治まっていく平和になって行く、必ず国が栄えていく、必ず一人ひとりが幸せになって行くという生き方、いわゆる、それが私の生き方と言うことをです、まあ、昨日の御理解でいろいろ聞いて頂いたんですね。で、その後にです、そこの田中さんの奥さんが参って見えられ、先生、昨日夕べの言葉に今朝からこう言うようなお夢を頂いて、それが今日一日こう胸にかってからおりましたというてお届けがあったんです。それを聞かせて頂きよってからですね、はぁーそれはあんた、今晩の御理解を具体的にですね、した御理解だったですねというて話したことでございますが、この夢の中にですね、自分が口に指を加えておるという自分を見たと、ね、子供がなにか物欲しそうにしておる時は指を加えているでしょうが、ね、もの欲しそうな生き方、いわゆる、そして、次にはですね、この口、のどからですね、一生懸命こうやって布ですね、あの布です、衣食住の衣です、この布を一生懸命こうやって引っ張りだして、えいえい、いいながらその引っ張り出されるところを頂いた。ね。
まあ、いうならばです、あの着物はよかなと、あの着物は欲しいなあと、あのていっちょ買いたいなと言うことなんです、いうなら、指を加えとる、人間の幸せになるためにはどうでもこの三つが足ろわなければならないといわれておるのは衣食住なんです。衣、食、そして住、住まい、ね、その衣食住に対するところの見方、考え方、頂き方というものがです、こういう考え方が本当だな、こういう考え方をすることが、人間誰しもこういう考え方をしてさえいけば幸せになるなあと、という生き方を私の生き方からそれを私は感じたんです。ね。
私がここ二十年あまり、ね、ここにこうやって道が開け、椛目から開けて来る前からです、私の信心修行の内容としてです、ね、自分が求めて食べようとは思わない、食べたいからというてあれを買うて食べるといったような事はしまいと、ね、あれが欲しい、あの着物が欲しいというてあの着物を自分で買うような事はすまいというのは、これは、まあ私と家内との大体はそれは自分の修行としてそうさせて頂いた。そんな大変な大事な事とは思ってなかった。ただ修行と思うて私共夫婦は、それこそ、布一寸でも買うような事は致しませんというのが私の心である。これは椛目の道が開ける前から、ね、いうならば終戦後からです。ね、住まいなんかも与えられたあの住まいからこれより以上の住まいに自分から住もうと思わないというのである、ね、欲しいと思わない、ね。
そういう生き方の中からです、私はまず第一に、身の不自由を今日までしたことがない私共夫婦は、そういう生き方の中からです、食べ物に不自由した事がない、そういう生き方の中からです、ね、私共が福岡におりましたが、もう、それこそ、小屋のような住まいの中から段々おかげを頂いて今日こういう、いうなら、裕福なお家に住まわせて頂くようになったと言うことです。こういう生き方こそがです、人間誰しもの生き方になってくるならばです、これは素晴らしい事になる、様々な生き方がある、ただ神恩報謝さえしときゃいいという生き方ではなくて、ね、それはもう人間の考え方がですね、様々にあーいう生き方もある、こういう生き方もあるというけれどもです、これはどうでも人間のすべてがこういう生き方をさえすれば間違いのないおかげが受けられるという生き方がここにあると言うことを改めてこう発見した感じがするんです。
これは私一人の生き方にせずに、合楽に御神縁を頂いておるみんなも一つの生き方にしていかなければならんのです、それを、いうならば、そう人類の上にです、押し広めて行かなければならない、ね、人の物を摂取するという事がない。それこそ、人の茶碗でも叩き落してからでも自分が立ち行く事をするような事を考えなくても良い。そういう生き方がある、そういう生き方を真の生き方という、そういう道を真の道のだというのだという、いうなら、御理解だったんです昨夜。
真道、真の道とはそういう道なのだ、いや厳密に言うとたくさんな生き方がある、生き方が。けれども、どの生き方が一番人間が幸せになれるかと言うことなんだ。どの生き方が一番人間が平和になれるのかと言う事、ね、打ち向かう者には負けて時節に任せていけと教祖が仰る、その生き方がです、ね、成り行きを大事にしていけ、自然を大事にしていけという私の生き方、ね。
真の道というものを見失わないように腹たてば心の鏡の曇ると仰るが、必ず心が曇ると言う事は腹を立てた分だけ曇るのじゃない。神様の機感に叶わない思い方や考え方をすると心の鏡が曇るのだと、曇れば真の道を見失うのだ、特に私は磨いていかなければならない、改まっていかなければならないと言うことを私は限りなくお互いが美しゅうならせて頂こうやというのである。そういう生き方なんです、限りなく美しゅうならせて頂こうや、中には磨かなければ、改まっていかなければ美しゅうはなれないのである。曇ったらすぐ心の鏡を美しゅうしていくという生き方なんです、そういう生き方なんです。
しかも、その、そういう生き方の中にです、自分から求めて食べようとは思わない、自分から求めて着ようとは思わない、自分から求めてよい住まいに住もうなどとは夢思わないと言う事、そういう生き方の中にです、ね、食べさせなければおかん、着せなければおかん、良い家にいよいよ住まわせなければおかんという道が開けてるという道が真の道なのだと、こういう素晴らしい道なんだ。おかげを頂いとかならんというてです、ね、お金、お金、この世はもうお金というような生き方もあるけれども、どの生き方も本当じゃない、人を責めなければならない、摂取(せっしゅ)しなければならない。
そこで、なら皆さんがその話を頂きながら、そう言うわけにはいかん、先生のようなわけにはいかんとこう思いようなさるだろうと思うんですよね、そりゃ、やっぱり食べる物は買わにゃでけん、神様、先生なら誰でんお供えするけんでよかろうばってん、自分にはやっぱ買わにゃでけん、なら買うてはでけんというのではないのですよ、ね。
いうなら、それはどう言う銘々生き方があるかというとです、いわば、分相応の生き方をして行けというのです。ね、私は着る資格がないと思うたから、もう買うてからまで着らんと思うた、食べる資格がないと思うたからもう私は求めて食べようとは思わなかった。とても、私共この家ですら勿体無いと、例えば福岡時代に思うた、からこれ以上の家に住もおうとは思わんと思うた。
ところが、皆さんは日々お働きになって、お商売する者はお商売の利益を頂かれるだろう、勤めに出られる人は給料を頂かれるだろう、ね、いうなら、神様のおあてがいというものがあるのだ、それをお恵みの物として頂くのだ、頂いておるそのお恵みを、そのお恵みの内で生きていこうというのである。一万円の給料をとる人もあらば、一万円の範囲で済むような生き方をしようというのである、ね。
十万円持っておる人は八万円も、九万円もかかる生活をしても、それは決して贅沢ではない、そういう生き方があるのだ。ね、一万とる人はです、例えば一万円で買えれる着物を買うたらいいのだ、一万円で住まわれる家に住んだら良いのだ、そういう生き方をです、押し進めていくと言う事、そういう生き方がある、こういう生き方があるんだと、ね。
様々な例の中にこういう生き方があるというようなものではなくてです、ね、こういう生き方こそが、本当の人間の生き方なんだと、ね、本当の人間が歩く道はこういう道なんだ、と言う事をです、ね、どこにもあるここにもあるといったようなもじゃない、ね、この道こそ、この生き方こそ人間としての本当の生き方であるという生き方を、皆さんは日夜ここで頂いておられるわけなのです。
ですから、皆さんとてもその生き方にですね、神習わせて頂かなければいけない。田中さんではないですけど、ね、あれが欲しいこれが欲しい、それこそ、口に指を加えておるような状態が心の中にありはせんだろうか、よしそれを頂いてもです、大変な問題、それこそいよいよ悪うなる、口から着物を引っ張り出すようなもの、ね、だから、もうこれ以上のもの、これが私の分相応なのだから、これで結構であるという、ね、そういう気持ちにならせて頂いてです、お互いが本当の生き方を目指して信心させて頂いて、その生き方が、この生き方こそが間違いのない生き方として人にも伝えていき、ね、これが段々、なるほど、そういう生き方が本当にあるとするならばです、もう、なるほどそれが本当の生き方であろうと皆が合点してくれるようにです、人にもそれを伝えていく。本当にそういうような楽な生き方、誰も責めない、誰も買わず摂取しない、そういう生き方があって本当に生きていかれるならば、いや、生きていかれるじゃない、いよいよ、より良い良い生き方がそこから生まれてくるとするならば、もう誰しもそういう生き方をしなければいかんのだと認識させていかなければ成らない責任があると言う事、私共には。
世界真の平和を願わせてもらう、ね、一躍でも世界真の平和を願わせて頂いておるがです、まず世界真の平和を頂かせて頂くためには、まず本当の真の生き方をまず私がさせて頂いて、その真の生き方を押し広めて行かなければ世界真の平和は望まれないと言う事です。
人間としてです、人間が本当に幸せに行くように、生きていくためにはもうどうでもこの生き方を体得しなければいけない、なるほどそれは様々な生き方があろう、あろうけれどもどの生き方よりもこの生き方よりもこの生き方が一番間違いのない生き方だと、言うことを皆さんが確信をもって、私共がそういう素晴らしい生き方を習わせて頂いておるんだという気持ちになり、その生き方を本当に神習わせて頂いておかげを頂いて行かなければならんと思うのでございます。